帰省モードに入ります♪ ― 2009/08/08 16:54
いかがお過ごしでしょうか
おさか家は明日より、帰省ロードを突っ走ります
盆明けには戻ってまいります
夏休み明けごろに、ひとりごと系ブログも発進する予定でございますが
あくまで予定なので
遅れても怒らないでくださいましまし
それでは皆様
よいお盆休みを♪
ふたたび、繭のはなし ― 2009/08/20 13:23
もう三年半も前になる
http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2006/01/30/231490
あれから
子どもも大きくなり、文章塾も終了し、私は相変わらず文章を書いているが
母と「繭」の縁も、切れずに長く続いているようだ
春のころ
母は、ふとしたことで訪れた山奥の家で
蚕の繭を大量にいただいた
もちろん中身入りである
貰ってきたはいいが、さてこれをどうする?
何しろ「なま」の繭である
中に生きた蛹がいるのである
放っておけばそのうち孵化して成虫が出てくる
かといって
「処理」してしまうのも忍びない
悩む母に相談された私は
何でそんな難儀なものをもらったのかと言いつつ
一応引き取り先を探せるだけ探して
無理なら神社の森に置かせてもらっては?
とこたえた
それからどうなったかは知らないまま夏を迎え
子どもを引き連れて実家に来てみると
「もうね、引き取り手がなくて。本当に神社に持っていこうかと思っていたら」
向こうから現れた
実家の製品をネット販売してくれている地元の業者さん
(ここにもリンク貼ってます)
こころよく持ち帰ってくれた上に
後日、その繭からとった化粧水まで譲ってくれたそうである
そんな話をしつつも
絹というのも、罪深いものね、生きてるもの、これから外に飛び出そうというものを殺して手に入れるわけだから
と母
だからこそ昔は、本当の高級品にしか使われなかったのではないか?
しかも直接肌には触れないもの
下着に使われたのは、人間以外のものの命は別と見なす西洋からではなかったか?
蚕の口から出る糸はそのまま彼らの命の塊である
あの儚げな輝きはそのまま彼らの命の輝き
ものをつくるという行為はかくのごとく業を背負う
大事なのは
可哀そうだと無暗に感傷にひたることではなく
いただいた命を大事に、心をこめてあつかうことである
何かをつくるものはそういうことを忘れてはいけないのだと
道は違えど
母と私は思いを同じくしたのだった
夏の思い出 ― 2009/08/26 20:32
夫の両親二人とお婆ちゃまの、通常は静かな一軒家に
五人が押しかけ、毎日プールだ何だと出かけていくわけである
(いつもすみませんすみませんすみません)
そのほかに、必ず訪問するお家がある
昔、仲人をしていただいたご夫婦のお宅である
西条市の隣、今治市桜井で漆器のお店を営んでおられる
毎年とても歓待していただくものだから、もう結婚してから十年以上経つというのに、今年もまた図々しく家族五人で乗り込んでしまった
(いつもすみませんすみませんすみません)
さまざまな漆器製品や、ガラス製のうつわなどが並ぶ店内でお茶とお菓子をいただきながらしばしお喋り
やや退屈ぎみの下二人、夫が海を見に行こうと外に連れ出した
そのとき、ふとご主人、
「ここの近くに神社があるでしょ? 昔はあそこで、金毘羅さんに向かって旅の無事を祈願して、船を出した。椀舟って言うてね、瀬戸内海から中国・九州、日本海にも出て、能登の方から職人さんを連れてきたらしいよ」
そんな話をして、おさかさんの住んでいた辺りには行ったかどうかわからないけど、と言いつつ「椀舟もなか」というお菓子を実家へのお土産にとくださった
(愛媛の後は福井に移動することになっていたため)
長女には、椀舟の絵の入った素敵な飾り皿
沈金や蒔絵といった技術は、この椀舟に乗ってもたらされたらしい
私の実家の近所にも漆器を作る地域はある
おそらく大陸からやってきた技術者集団が日本海周辺の地域に散り
瀬戸内海を中心とした商人たちの才覚で
技術、製品の流通がなされた
直接のかかわりはなくても
おそらくそういう流れのさなかにあったのは確実の
福井県出身の私が
さいたまに家を持ちながら
まさにその舟の出た場所で、その話を聞いている不思議
まだまだ世の中は
愉しい謎に満ちている
戸倉屋漆器店のHPはこちら(椀舟もなかも買えますよ♪小豆あんにほのかな梅味がついていて美味しいです)
http://www.tokuraya.jp/index.html
椀舟の歴史についてはこちら
http://www.i-bussan.jp/sakurai/rekishi/rekishi2.html
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