和紙の里のお正月2013/01/11 22:49

バタバタしているうちに、あれよあれよともう鏡開きですね。皆さまいかがお過ごしでしょうか。
我が家では次女がスポ少納会で作った鏡餅(餅ついたのはお父さんたち 笑)を切り出して、ぜんざいにして美味しくいただきました。まあ、少ししかなかったので家族全員でとはいきませんでしたが。
というわけで本当は年末に更新したかったお話を今更書きます。はい、何が「というわけで」なのかさっぱりわかりませんね、すみません。新しい年が明けても相変わらずです。

注※和紙の里、といっても大滝神社周辺だけ(下手するとうちの実家だけ)という極めて限定された地域のみの話であることをご承知おき下さい。

戻ってからの土日で宿題を特急消化していた息子。
「お正月の食事を作ってみよう」だの「地域による食習慣の違い」だのというテーマでレポート書くというもので、必然的に両方福井がサンプルということになった。母の指導のもとあくせくとペンを走らせる息子、ふと感想をもらす。

どんだけ福井県人かつお節好きなの。結局かつお節ばっかり食べてんじゃん」

・・・そうかも。だいたい年越しそばがこれだし。

雑煮もこうだし。(出しは昆布)

福井といえば冬に水ようかん、というのはまあまあ有名(?)だが、ここまでかつお節ラブだということはおそらくほとんど知られていない。というか、もしかしてここいらへん限定、ていうかうちの実家限定だったりして(ありうる)。福井県人にご意見求む。

そしてさらにマニアックな大晦日の挙動。
わが実家では年越しそばとすきやきがお決まりのメニュー。大人は紅白、子どもは別の部屋で「笑ってはいけない」を観る。紅白が終わりゆく年くる年がはじまると、そろそろ外からも鐘の音。それを合図に初詣にお出かけだ。こんな感じに

それから大滝神社へ。そのまま下の宮でおまいりしてももちろんOKなのだが、そうではなく奥の院のあるお峰を上るのが地元民の基本。やっぱり新年の挨拶は直に言いたいですよね。

往復小一時間くらい、小さい子からお年寄りまで登る、というと大したことなさそうだが、元は一大寺社勢力の軍事拠点、山城だったところ。道は整備されていて迷うことはないが、けっこう急なつづら折りの道が延々続く前半はちとキツイ。私は今回十数年ぶりに登ったのだが、体力の衰えと運動不足が祟り、最初の2巻きくらいでヘタレそうに。昔から慣れ親しんだ山じゃなきゃ引き返してたかも(;´д`)トホホ…ここをお神輿担いで上り下りするんだから地元民偉大です。

亀の歩みで休みつつどうにかこうにか前に進み、中間地点を過ぎた頃からはだいぶ慣れて、こんな写真撮るくらい余裕が
って、これ下りの時でしたけどね。あははは。何かしましたか?てくらいの中高生たちの元気さを目の当たりにし、加齢が身にしみた初詣でした。まあとにかく上までくじけず登れてよかった。
川上御前さま、お名前お借りしているのにこれまで直接ご挨拶もせず失礼いたしました。今年も精進いたします。

皆さまも本年もどうぞよろしくお願い申しあげます。

伝え語り2013/01/15 21:29

年末年始に福井の実家で倉庫を掃除していたら、小学校の時の副読本が出てきた。その名も「越前和紙の里」。
なんと水上勉さんから賛辞をいただいている。
この本は、小学校五、六年の時の担任のN先生(当時は新任)が中心になって、「越前和紙の里」について、歴史やその技術、地元の言い伝えなど調べあげ、子供にも読みやすいよう易しい言葉でまとめたもの。
発行はちょうど私が小学校を卒業した年次なので、この本を使っての授業は残念ながら受けてはいないが、関連するような、今でいう調べ学習のたぐいなどは相当にやっていたと記憶している。そうそう、劇までやった。脚本は先生たちが作ったが、原作って確か「越前竹人形」じゃなかったかな。福井の妻のほうが夫の裏切りを苦に身投げするという、小学生にあるまじき(笑)筋。ちなみに私はナレーターだった。あのときの脚本なんかも探せば出てくるかも?

子供向け、といいながら内容は充実、今読んでもかなり面白い。関係者の方に承諾を得ていないのでまるっと全部というわけにはいかないが、明日ちょっとだけここで紹介します。(ふふふこれで連続更新)

「しきぶ扇」始動!2013/01/16 16:57

明日から始まる「越前和紙展」にEICOさんの扇子が出品されます。
その名も「しきぶ扇」(しきぶせん)。

場所 : 「ふくい工芸舎」 福井駅前、福井西武新館近く
期間 : 1/17(木)~2/10(日) 10:00~18:00(火曜定休)
電話 : 0776-30-0054
※入場無料です

今から千年以上前、雪深い越前の地で
二年余を過ごした紫式部は
住み慣れた京の都に帰ったのち
「源氏物語」を書きました。
ともに千年を越える長い歴史を持ち
職人の確かな手わざで作られる
京都の扇子と福井の越前和紙が
平成の世にして初めて出会い
生まれた「しきぶ扇」。
どうぞ行く先々にお連れください。
未知との出会いを積み重ねた物語が
今も世界中で読まれているように
「しきぶ扇」もまた
新たな歴史を刻むでしょう。

この御縁が永く続いていきますように
  平成25年一月   伝統工芸士 長田榮子

製品として売り場に出されるのはインターナショナルバザーを入れて二度目、「しきぶ扇」としては初陣です。
お近くの皆さまは是非お越しを!

副読本「越前和紙の里」紹介(1)2013/01/17 10:07

「未だに、いないということが受け入れられない。いつか会えるような気がしてならない。会いたいです」
といって泣く女性をテレビで観て、登校前の次女も涙ぐんでいました。

本日は阪神・淡路大震災の日。あの朝は地震があったらしい、ことくらいしかわからないまま、いつものようにバタバタ支度して出勤。現地が酷いことになってると知ったのはお昼前くらい。もう18年にもなるのですね。いやまだ18年、というべきか。いちどついた傷が消えるにはまだ早すぎる。まして東北の方は・・・と考えると胸が痛む。
自然災害の多いこの日本に住んでいる限り、いつ身近に降りかかるとも限らない。肝に銘じ覚悟を以て、人に優しく、かつ強く生きたいものです。

さて、「越前和紙の里」紹介するといいながら、展示会のお知らせを優先させてしまいました、すみません。でもこれで3日連続更新♪さて、どこまでいけるかな。

まずこの素晴らしくよくできている「おかもとの絵地図」(絵・細井憲摩)
お峰を中心として「U」の字に集落が配置されている様子がよくわかる。左側の方は結構小学校から遠くて、スクールバスが出ていた。徒歩圏とはいえ往復で小一時間かかるところに住んでいた私はちょっと羨ましかったりしたが、高学年になるとその遠い集落の子も皆歩き。そのせいかどうか知らないが、足の速い子が多かったのを覚えている。

ページをめくると、最初に出てくるのは懐かしき岡本小学校の校章と校歌。
この校歌が今見るとまた素晴らしく美しく、端正な文章。地元で生まれ育った子どもたちに過不足無く伝えるべきところを伝えている・・・とはいえ小学生の私はなんにもわかっちゃいなかったけど(笑)。

岡本小学校 校歌
    相馬御風  作詞
    中山晋平  作曲

一、湧きてやまざる 渓水(たにみず)の
    清き流れの その如く
     清き心に たゆみなく
       学びいそしむ 我等なり
二、神のまします 児(ちご)の峰
    住むに安けき 岡本の
     里をいよいよ よくすべき
      務(つとめ)を負へる 我等なり
三、いざや進まん もろともに
    教(おしえ)の光 明らけき
     正しき道を 一条(ひとすじ)に
      親しみ睦み いざやいざ

・・・なにこれカッコイイ

小学生の頃は単に古めかしいとしか思っていなくて、
「湧きてやまざる」を「山猿」とか
「明らけき」を「あきら~笑(という子がいた)」とか
皆でおちょくっていました…すみませんすみません。
務を負える、も最初「終える」かと勘違いしていて、長いこと意味がワカラン???と思っていたりとかもう、当時のアンタの方が意味わからへんわ!てな始末。だからといって大人になった今、この高尚な校歌に顔向けできるほどの人生を私は歩んでいるのか?!ああああ穴があったら入りたい。

今はこういう感じの校歌は少ないのかもしれないが、古臭いとか現代に合わないとか浅薄な理由でうかうかリニューアルなんかしないほうがいい!とあらためて強く思う。子供のうちはよくわからなくても、卒業してからの長い人生いつどこで、六年間歌い続けた言葉の一つ一つが目を覚まして叱咤激励してくれるか知れない。むしろ子供に理解しにくい言葉のほうが、後で効いてくるんじゃないかな。言霊は短く簡潔なほうがいいもの。

と、いつ中身に入るんだかよくわからないままに、とりとめもなく続く。
(まあ、そのほうが連続更新できていいかも←オイオイ)

副読本「越前和紙の里」紹介(2)2013/01/18 19:48

さてこの本には、越前和紙の里に残るさまざまな伝説が収録されているのだが、その中でひとつ異色なのをご紹介する。紙漉き関係は出てこないのだが、今年は巳年であるということで。

「武周が池の大蛇」
昔、大滝のお金持ちの家に、美しいお嫁さんがいた。ある日お嫁さんが頭巾を川に落としてしまい、拾おうと覗きこむと、そこには怖ろしい蛇の姿が映っていた。
「わ、私は蛇だったんだ!」
お嫁さんは絶望し、誰にも言えず何日も思い悩んだ末、越知山のふもと武周ケ池にやってきた。ところが自分の正体を五平という村人に見られてしまった。
「このことは誰にも言わないで。毎日、生魚と五十文を届けるから」
と言い置いてお嫁さんは池に身を投げた。
毎日届く生魚と五十文のおかげで、五平は金持ちになった。不審がった村人に詰問され、五平は秘密を漏らしてしまう。
すると突然大洪水が起こり、現れた大蛇が五平をぐるぐる巻きにしてさらっていってしまった。

それから随分経ったあと、日照りが続いて困ったことがあった。
「これは嫁のたたりかもしれない」
お嫁さんの家のものは思い余って、武周ケ池に出かけ
「どうか雨を降らしておくれ」
と頼みながら、盃に酒を入れて浮かべた。するとその盃はすうっとひとりでに滑り出し、池の真ん中でくるくると周って沈んでいった。その日から三日三晩雨が降り続いた。

以来、武周ケ池は雨乞いの池としてうやまわれている。お嫁さんの家のものが行って雨を降らしてくれと頼むと、聞いてくれるそうだ。

「大滝」というのは私の実家のある辺り。実はこの武周ケ池、私はずっと大滝の山の何処かにあるものと思っていた。だって、大滝の家のお嫁さんだもんね。ところが調べたら、全然違う場所。現在、越前加賀海岸国定公園第2種特別地域に指定されていることからわかるように、大分海寄りだ。結構遠いよ・・・。ちなみにこのような池。
で、いろいろ検索しているうちに、違うバージョンの話も見つけた。

元々この池は、天正18年(1590)に起きた冬巳の洪水といわれる山津波が天賀峰を崩し、武周谷を堰き止め、周囲の田畑や神社に谷川の水が溢れてできたそうな。
時代は下って亨保の頃(1716~)、今の福井市内で五平は「身も心もうつろに佇む」娘を見つけ、七里の道を武周村まで連れて帰ってきた。娘は今立郡五箇庄大滝の人で名を「およせ」といった。入水を止めようとする五平に向かって娘は、
「他言しなければ毎日、魚と金銭をあげましょう。約束を違えれば七代まで祟ります」
といって池に身を沈め、大蛇に化身。

その後は同じだが続きがあって、ちょっとここに書くの怖いよ・・・興味ある方はこちらをどうぞ。今は神社も作られて、縁結びの龍神様として崇められているそうな。しかしなんでまた「大滝」の人なんでしょうね???全然縁もゆかりもない場所なのに。てことでちょっと考えてみた。

この頃はもう大滝は、和紙の産地として有名だったはずで、このお嫁さんの家が紙漉きをしていたかどうかはわからないが、神様から賜った紙漉き業(=水に関わる仕事)をしている土地の者という認識はされただろう。五平がこの娘との「約束を違えた」せいで村は何度か水害に見舞われたが、その水を生かして水道を引いたり発電所が出来たりもしている。村全体として、長い目で見ればプラスに働いている側面もある、ともいえる。だとするとやはりこの娘は単なる蛇の化身ではなく「外から来て何かをもたらす」神だったのだ。何しろ、同じように川上=村の外から来た女神に紙漉きをもたらされた「大滝」の女性だったから。

自害しようとさまよっていた大滝の女性を、村人が哀れに思ったか何かで村に連れ帰った。だが女性は池に身投げしてしまった。不幸な、かつ不思議な事件。その「わけのわからなさ」がのちの自然災害に結びついて、このような話が出来上がったのかな、と思う。
うーん、女性はどこの家の人だったんだろう?

いろいろと興味深く面白いのでまだまだ続く♪