なくしたものはありますか?2013/08/07 09:59

「雁の寺・越前竹人形」(1969・昭和44年) 水上 勉

大正から昭和初期にかけての福井県の情景と、腕のいい職人の技の描写はさすがの水上作品。この本、実家にもあるのでおそらく一度は読んだことがあるはずなのだけれど、どういうわけか全然まっっったく覚えていない。理解できなかったのか、はたまた途中で挫折したのか定かではないが、大人になり、もう地元で暮らした年月より外での生活の方が長くなった今では、本当に読み応えのある一冊だった。

【以下、ネタバレあり】※ご興味の湧いた方はこの先読まず、お試しあれ♪




いずれも、「母親」にまつわる「完全犯罪」のお話。特に「雁の寺」はエピソードの順序を変えれば、まんまミステリーになり得る。有名な画家の描いた襖絵のある寺の和尚が、ある日ふっと行方をくらました。残された囲われ妻と少年僧はそれぞれに事情を抱える。果たして真相は・・・といった具合に。だけど、これはこれでいいのだろうな。淡々とした日常の中で殺人を犯す人の心理の「わけのわからなさ」が、わからないままぼやけて消えていく。現代より人間関係の濃密な田舎でありながら、殺人そのものが誰にも知られず、手を下したものが不審を抱かれたり疑いをかけられることもなく、おそらく良心の呵責もさほど感じることなく、ただ時の流れに押しやられる。謎はすべて解けた!というような明快さはどこにもないが、ゆるやかに破滅に向かう登場人物たちとともに、話に引き込まれていく感じがなんともいえない。
「越前竹人形」の方はそれよりは多少明るいとも言え、何倍もドロドロした残酷な話とも言えるのだが、喜助の作り出す竹人形の美しさ・二人の束の間の幸せの輝きが、裏の事情故に一層引き立つのは確か。薄幸な生い立ちの喜助と玉枝が、ただいっときを共にし、沢山の人を魅了するような美しい竹人形を生み出した。あの時代の無辜の人としては十分過ぎるほどの「生きた証」だったのではないのだろうか。

水上氏がこの作品を描いた背景には「失われた故郷」「失われた日本」を思う心がある、とあとがきにあったが、本当にそれだけだろうか?だいたい「失われた」ものって一体何?
のどかな田舎の風景=電気もガスも水道もない、朝から晩まで重労働を強いられる生活、
寺の小僧=貧しさゆえに年端もいかないうちから寺に奉公に出され親の愛を知らない子供、
我慢強く、従順に男に仕える女性=学も無く男に頼る他生きるすべを持たない女、・・・
それ、復活させたいか?少なくとも惜しまれて無くなったものではないのでは?
そもそもこの本の登場人物たちは、自分たちが「失われた故郷」「失われた日本」の象徴のように扱われることを望むだろうか。あほなこと言いなはんな、うららんてな人間はこの先はもうおらんほうがいいわ…というんじゃないだろうか。

そうではなく「今目の前にあるもの=いつかは消えゆくもの」に対する愛、なのではないだろうか。その存在への敬意と賞賛というべきか。例えば田舎の古寺で思いがけず目にした豪奢な襖絵であるとか、旅の宿の片隅にひっそり飾られた可憐な竹人形の姿であるとか。いつか必ず朽ち果て消えゆく運命にあるが、人を惹きつけずにおかないもの、それにまつわる歴史や因縁に思いをはせることで、物語を見い出すことができたのではないかと思う。小説は誰かに読まれればいつでも「今そこにある現実」を語り出す、だからこそ何十年も、何百年も前の、今の自分とはまったく違う時代を題材にしていても、十分に愉しめるし心を揺さぶられるのだ。

自分たちが生きているこの世界が、かつて相当の重労働と、病苦や貧困に苦しめられた数多の人々によって繋げられてきたことを、時々は自覚すべきかと思う。「今」は必ず「過去」や「歴史」に繋がっている。「失われた日本」や「失われた故郷」は、誰の中にも確かに存在している。