続いてきた理由 三2015/07/19 15:02


関東ついに梅雨明け!暑いです!(記事と画像はあんまりというか全然関係なし^^;)

さてここでまたまた聖徳太子に話を戻し、関連する年表をおさらいしてみる。

574年 誕生(厩戸皇子となのる)
593年 皇太子となり摂政の任に就く(数え年20歳)
594年 仏教興隆の詔を発する
603年 冠位十二階を制定(30歳)
604年 十七条の憲法制定
607年 遣隋使派遣
610年 中国より曇徴来朝、紙の製法を伝える
611-615年 「三経義疏」を著す
615年 「法華義疏」を著す
622年 死去(享年49歳)

この歳になってあらためてこの年表をみてみると、

20歳で(!)摂政という国の政治を動かす地位につき、
30歳から破竹の勢いで新制度を打ちたて運用し、
当時の最高技術を外国から取り入れ国内外から職人も集め、
寺社建築・製紙普及という一大公共事業を各地で多数執り行う中
自分自身でもいろいろ造ったり書いたりして、
さらに外交でも大国に対し一歩も引かず独立国家として自国をアピール

…って、どんだけ超人なのか…

当時の実力者・蘇我馬子がバックにいるとはいえ、摂政になった翌年いきなり仏教やります宣言をしているあたり、よほど若い頃からいろいろと国のために何をなすべきか考えながら、勉強したりしかるべき人と繋がりをつけたりして準備していたんだろう。当時の仏教は学問であり、最高の知性がそこに結集していたから、仏教を広めることすなわち日本人の知力UPに繋がるとの思惑もあったと思う。それだけではなく、製紙という産業の世界的な将来性に気づき、いち早く国内生産の道をつける当たり、おそるべき慧眼だ。そして遣隋使を送った年の三年後には曇徴を招聘しておそらく最新の紙の製法を学び、翌年から仏教についての書を作り始める(=書きつけるための紙も当然用意したろう)というとてつもないスピード感。

聖徳太子については様々な伝説が残っており、十人の話をいっぺんに聞いていっぺんに答えたとか。それくらい聞き上手だったということなのだろう。人は誰しも自分の話を聞いてほしいもの。最初から最後まで真摯に耳を傾けてくれて、的確なアドバイスなり回答なりを与えてくれるような上司を慕わない部下はいない。太子は、当時日本で普通に採れた楮を使って今日の和紙の原型となる紙をつくりだしたと言われているが、なるほどこういう人ならばやりかねない、というかきっとやったに違いない。骨身を惜しまず協力する人間も数多くいただろうと思う。紙というものは飛鳥時代よりもっと昔からあったけれど、製紙業を日本の一大産業として育て広めたのは、確実に太子の類まれな才能・人徳による偉大な功績といって過言ではない。

そんな超人・太子の側近として歴史に名を残している
秦河勝(はたの かわかつ)
渡来人集団のひとつ、紙と関係の深い秦氏について次は考えてみます。
                                  >>続く

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