続いてきた理由 九2017/08/02 10:20

横山大観寄進の社標、一の鳥居前にあります
 白山信仰の祖である泰澄大師が開いた大滝神社。しかしいわゆる「白山神社」ではありません。もちろん一世を風靡した信仰ですから影響は色濃く受けていますし、白山信仰にはつきものの十一面観音も鎮座ましましておりますが、地元民にとっては昔も今もあくまで川上御前への信仰が中心です。

「大滝寺」ができた719年は、のちに深く仏教に帰依することになる首(おびと)皇太子(=聖武天皇)が初めて政務についた年でもあります。遣唐使は前回の倍以上の557人。一気にグローバル化が進み、風土記や日本書紀の編纂事業・増え続ける公文書や仏教経典の写経用等々質の良い紙の需要が右肩上がりのこの時代、既に紙すきの里として200余年を数える大滝を福井生まれの泰澄大師が知らないはずはないし見逃すはずもない。白山を開いた直後いち早く「吉兆をみて」向かったところをみると、最初から目をつけていたのでしょう。むしろ山より紙すきの現場視察をし、その確かな技術と生産体制を確認した上で寺の建設を決めたのでは?とさえ思ってしまいます。 
 紙の産地であることがもっとも重要な理由であったからこそ「白山」を前面に押し出すことはせず、元々の神である紙祖神・川上御前を尊重した……と考えると、「技術」というのは本当に「神」そのものだったのですね。
 大滝寺は天台宗平泉寺の末寺として、48坊をもち衆僧600人、神領70町余、氏子48か村という大勢力をもつに至りました。奈良時代から平安にかけ五箇で漉かれた紙は越前国府や大滝寺に納められ、のちに平泉寺が比叡山延暦寺と関係を持つようになると、京都へも送られるようになりました。時の権力者をその高い技術と生産力で魅了した和紙の里とともに最盛期を迎えた大滝寺は、皮肉にもその強大な力ゆえに否応なく戦乱に巻き込まれていきます。

 ところであの「越前奉書」、始まりは南北朝の時代といわれています。そんな大変な時代になぜ?

※南北朝時代とは
14世紀前半から後半にかけ、朝廷VS幕府の争いから各地で武士の権力争いに発展した内乱の時代。鎌倉時代後半から皇位継承問題に幕府が干渉し、二つある皇統どっちも正当ってことで交代で皇位につきましょ!(=両統迭立 りょうとうてつりつ)という方式を成立させ余計にこじらせた。陰謀渦巻き裏切り寝返りなんでもあり・遠方に流されたり落ちのびたりした先で武士や権力者を味方につけリベンジ→さらに裏切り寝返り……のループでますます泥沼化、戦乱は全国規模に拡大した。ややこしいことに年号も南北で分かれています。以下北朝・南朝の順で表記:

1336年(建武3・延元元年)北朝方の斯波高経(しば たかつね)が越前守護となる
1337年(建武4・延元2年)南朝方の新田義貞が敦賀・金ヶ崎城に立て籠もり高経(北)と激戦、義貞(南)敗走
1338年(暦応元・延元3年)義貞(南)が勢いを盛り返し越前府中を掌中に収め、高経(北)敗走。しかし藤島城の平泉寺衆徒が高経(北)側に寝返り、義貞戦死。
1341年(暦応4・興国2年)南朝最後の拠点とされた大滝寺が北朝軍に攻められ陥落

1342年(暦応5・興国3年)高経(北)は当時の五箇紙漉きの代表者・道西掃部(どうさい かもん)に
「立派な御教書用の紙を漉いて差し出すように」
と命じた。五箇の漉き屋は戦乱で逃げ散っていた職人を呼び戻し、力を合わせて漉いたという。そうして出来上がった紙が非常にすぐれていたため高経は喜び、これに
「奉書」と名をつけた。五箇の漉き屋も喜んで
「出世奉書」
と名づけて生産に励んだという。これが五箇奉書の始まりと伝えられている。
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 最初に越前守護となったのは北朝方。なのに大滝寺は北陸における南朝最後の拠点とされています。(戦場となったのは今の大滝神社ではなく、別の場所の出城なのではないか?ともいわれているが、何しろのちに織田信長の軍勢に焼き討ちされてしまっているためわからない)平泉寺を通じ延暦寺と関係があったことを考えると、元々南朝方だったのかもしれません。
 どちらにせよ大滝寺がこのように戦火に巻き込まれ焼け落ちても、翌年には守護の命を受け現在にも繋がる高品質の新製品を生み出した和紙の里の人々は、相当にしたたかで冷徹、かつ有能な商売人でもあったと思います。
新田義貞はちょっと気の毒…

参考:神と紙その郷 紙祖神岡太神社・大滝神社 重要文化財指定記念誌
越前市ホームページ/越前市の歴史年表

続いてきた理由 十2017/08/15 10:35

長田製紙所の丸八印。レトロな字体がなかなかよい♪

皆さま、良いお盆休みをお過ごしでしょうか? 私はこの夏休み諸般の事情でどこにも出かけられず蟄居生活をしております。ものを読んだり書いたりするにはうってつけですね♪(泣)
というわけで(どういうわけだ)、ここで「職人」について考えてみます。
※こちらで書いている内容は、様々な資料や本から関連したトピックをまとめたものです。詳しく知りたい方は文末の「参考」欄のサイトや本をご覧ください♪

現代日本において職人とは?
「自分の技能によって物を作ることを職業とする人。大工左官表具師など。 」
出典|小学館デジタル大辞泉について | 情報 凡例

鎌倉期に「職人」とされる人びとのなかには、医師・陰陽師・巫女・博打・万歳法師(芸能)など職能民全体がふくまれていました。自分の技能を使って何らかの仕事をする人、という大きいくくりだったのでしょう。室町期以後は職人といえば上記の定義のとおり主に手工業者をさす言葉となったようですが、まだはっきり業種が分けられていたわけではなく、田畑を持ち農村で生活しながら物を作りさらに運搬・販売までしていた者も多かった。職人の多くは商人をもかねていたということです
顧客より直接注文を受け生産・販売するというやり方で、商人の仲介販売利益を排除しようとした…ともいわれています。「職人」も「商人」もかなり古くからいたということですね。ものをつくる人というのはある意味わかりやすいですが、商人ってそもそも何をする人だったのでしょう?

「虹が立つ」ところに市場をたてるという慣習
人と人の間で物を交換するというのは「贈り物をして、お返しを貰う」という贈与互酬の行為です。つまりその関係をより強固にする目的ですることであり、商行為とはいえません。では「商品としての交換」はどのようにして行うか。
「モノがモノとして相互に交換されうるためには、特定の条件をそなえた場が必要、その場が市場である。市場においてはじめて、モノとモノとは贈与互酬の関係から切り離されて交易をされる…市場は日常の世界とは関係ないいわば『無縁』の場として古くから設定されてきたのではないか」(勝俣鎮夫)
「虹が立つところに市をたてる」という慣習は、平安時代の貴族の記録にもあり、室町時代にもまだその名残があったそうです。驚くべきことに日本以外の他の民族にも共通した慣習が存在するといいます。つまり市場は
「神の世界と人間の世界…聖なる世界と俗界の境(=虹の立つところ)に設定される」。
何か厨二心をくすぐる(笑)壮大な表現ですが、要するに日常の関係性に関わりなく、商品を以て自由に交渉ができる場ということです。現代の市場原理の原点ともいえますね。

技術を持つ人は神仏の直属民
そもそも金融の始まりは以下の「出挙(すいこ)」と呼ばれる流れだそうです。
初穂を神に捧げる→神聖な蔵に保管→翌年種籾として農民に貸与→収穫期、借りた種籾とともに若干の利息をつけて(利稲)蔵に戻す、の繰り返し
人智を超えた神仏に捧げられたものを人間世界で使用した場合、神仏への礼として利息をつけて返すという形がとられていた。このようにどうやって利を得るかを考え実行するのは、相当の知恵と機転がないとできないでしょうから、神仏の世界に通じる特殊技能のひとつとされたのも納得がいきます。
このころの商工業者は、特定の領主の支配する荘園の範囲をはるかに超えて、市場から市場へと活発に移動していました。職人たちは寺社神仏に奉仕する神人などの身分を得て、領主の支配領域にとどまらない活動の自由を保証されていたのです。金融や交易、ものづくり、芸能等秀でた技を持つ人は神仏に直接仕える者として、一般民と区別されていました。
もっとも神に近いところにいた「職人」たちは同業組織としての座をつくり、権威ある寺社神仏の加護と、土地の権力者に支えられて営業権を保証されていました。が、その排他性と特権が職人同士の対立を生み、さらに顧客と職人の自由な交渉と契約に基づかない在り方は産業の衰退を招くとして否定され、戦国期の終わりには楽市・楽座が行われるようになりました。領主の権力範囲からはみ出し利益を独占していた座や株仲間などは廃止され、絶対的な領主権の確立を目指すとともに、税の減免など新興の商工業者を支援・育成し経済の活性化を図ったのです。

南北朝時代を境に、従来の神仏に対する意識が変わり、それに伴って金融や交易、手工業に携わる人たちの身の処し方も変わっていったようです。しかし細かい事情は違うにしろ、まさに歴史は繰り返す…と思ってしまうのは私だけでしょうか?

ともあれ本来の意味での「職人」とは、
「ただひたすらものづくりに集中する」だけではなく、
神仏を敬い、
商売の世界と日常とを明確に分け、
権力に阿ることなく対等に渡り合って
したたかに生き抜いてきた存在である

ということらしいです。

参考:
「日本の歴史をよみなおす(全)」網野善彦 ちくま学芸文庫
「神と紙 その郷」