有限と無限2015/09/25 19:04

雨の中、行ってまいりました。
ニコライ・バーグマン伝統花伝」@シャングリ・ラ ホテル東京27階、最終日でした。

デンマークはコペンハーゲン生まれのフラワーアーティスト、ニコライ・バーグマン氏の新作披露展覧会で、日本の伝統工芸品や美術作品がコラボレートされてます。そのひとつが人間国宝・岩野市兵衛さんの和紙。
こうして見ると生クリームののったケーキのよう。上からのぞくとミルフィーユの如く和紙が幾重も層をつくっています。和紙も元々は植物なのでお花には馴染みやすいのでしょうか。半端ない一体感でした。これだけはむしろお花より紙が主役のような、という印象は身内びいきか?一緒に行った長女は「市兵衛さんの紙がこんなに…何かもったいない」と。
シャングリ・ラ ホテルのビルは東京駅の真ん前という絶好のロケーションですが、26階まではオフィスが入っていて、エントランスは意外なほどこじんまりしています。ですが一歩入ればそこはさすがの5つ星。それはそれはゴージャスで贅沢な空間が拡がっておりました。
27階の会場には、そのラグジュアリーな雰囲気に負けないばかりか、更に引き立て更に輝く、華やかでゴージャスな作品の数々が展開されておりました。写真がうまくなくて申し訳ない。






実物はもっと色彩豊かでキラキラしていました。作品はもちろんのこと、ライティングの技術も素晴らしい。まさにプロの仕事!

このフラワーアート、生きた花を使っている以上、絵画や彫刻のように保存することはできない。花がその命をまっとうする前に、展覧会も「終わらなければならない」。非常に儚いアートです。いっぽう今回コラボした伝統工芸品たちはそれほど短い命ではない、和紙、焼物、漆器、織物といった、ともすれば人の寿命を遥かに超えてその姿を保ち得るものばかり。花はその命の短さ故に、その瞬間の美を切り取って最大限に発揮することに意義がある。器と成る工芸品にしても永遠にその姿を保つものではなく、二度と同じ花に出会うことはない。有限であるもの同士だからこその一期一会は、その空間を精魂込めてつくり上げる人がいる限り、無限に生まれ、続いていく。

外国人ビジネスマンも多く行き交う東京丸の内、近代的なタワービルの中に構えたシャングリ・ラが、彼のアートを採用している理由がわかるような気がした。エントランスやホール、廊下などはもちろんお部屋の中にも置いてあるらしい。うーん、泊まってみたいものだ。

とにかく圧巻の展覧会。雨だけど行ってよかった!画像は私のへったくそなやつより、ネット上に沢山きれいなのが落ちているので検索してみてください。あの色を出すのはさすがのiPadさんでも難しかった…というか私が使いこなしていないだけかも。

続いてきた理由 五2015/09/04 12:34

晴れ間もつかの間、不安定な空模様の9月ですね。

さて渡来人の数についてですが、公式の記録に残っているのは、当時の王族と親交があり政治力かつ統率力のある指導者の下にまとまった大きな集団の話だけで、具体的な人数の記載などはないようです。なので正確な数は不明ですが、この時代の急激な人口増加から推測すると、一説には100万~150万人もの人数が入ってきていたとも言われています。

折しもシリア難民の問題がニュースで盛んに取り上げられていますが、今よりずっと人口が少なく土地も余っていたであろう時代の日本でも、言葉もろくに通じない、見ず知らずの外国人集団を受け入れるのはやはり大変なことだったでしょう。少数なら同情もし手厚くもてなしたかもしれませんが、現在の移民問題と同様に、伝手をたどり次から次へとその数を増やすうち、記録に残らない程度の小競り合いや揉め事の類はいくつも起きたことでしょう。だからといって帰る場所はもうない。それにせっかく戦乱を逃れてきたのに、ここでまた争い殺しあうのはあまりに愚かだし、双方にとって不幸だ。ではどうする?

お互いに「利」のあるつきあいをしていくしかない。

誰にとっても役に立つ技術をもってさえいれば、出自にかかわらず、どこにいっても生きていける。さらに技術を独り占めするのではなく分け与えるという姿勢であれば、むしろ歓迎され、良い関係を築いていけるし、技術を生業として長く継承していくこともできる。渡来人たちが単なる戦争難民ではなく、職能集団としての性格を濃くしていったのは、必然の流れだったのでしょう。国籍も、地位も身分も性別も関係なく、力で抑えこむのでもない、役に立つ技術によりあらゆる土地・あらゆる階級の人々と交流し、思うままに融合したり離れたり、という生き方は、ある意味究極の自由人ともいえるかもしれない。最初の頃一族で固まって暮らしていた渡来人たちが次第に各地へと広がり散らばって、国と人とに溶け込み、ともに現在の日本国と日本人を形作って来られたのも、ひとえにこの、枠にはまらない「職人気質」な生き方を選択したおかげなのでしょう。

その「職能」のひとつであった製紙業。越前和紙の発祥は伝説によると、
「川上からやってきた、綺麗な着物を着た女性」
から製紙法を習ったのが始まりだとされています。
女性の正体は不明で、継体天皇のおつきの女性であるとか、諸説ありますが、明らかに土地の人間ではない、どうみても富裕層といった外見の女性が突然現れて手ずから技を教え、またいなくなったという話は、まさに当時の職能で生きる人間の動きそのもの。性別関係なく、自由にあちこち移動しつつ、ここと決めた土地に技術を根付かせ継承させていくという生き方にぴったり合致しています。
川上御前を紙祖神にいただく越前和紙の里では、紙を漉く主力は女性です。紙漉きに必要な綺麗な水が豊富にある、という好条件がある土地に根ざした産業ではありますが、昔から決して閉鎖的ではなく、常に新しいものへの好奇心を失わず、来るものは拒まず、必要とあらばどんどん外に出ていく、という開かれた場所でもあります。

それにしても、川上御前なる女性は、なぜこの土地を選んでくださったのでしょう。綺麗な水が豊富にある、ということは大きな理由だったのでしょうが、見つけるきっかけはなんだったのか。元々そういう土地を日本各地に探しまわっていたのか、それとも誰か紹介者のようなものがいたのか。いずれにせよ、川上御前がたまたま?この土地を選ばなければ、今そこに集落は存在しなかったかもしれない。今これを書いている私もいなかったかも。あえてそれを運命とは呼びません。つくづくと、先人の「判断」と「選択」に感謝です。


                             >>以降、不定期に続く

続いてきた理由 四2015/08/20 17:15

しばらく暑さで溶けていました。気づけば盆明けで雨も降ってすっかり涼しく(^_^;)休みボケで頭が働きませんが(それはいつもか)がんばって更新。
こちらは帰省時に初めて入った「記憶の家」。思った以上にすっきりした居心地の良い空間でした。千客万来♪

さて、秦氏。
ネット検索を駆使し調べた結果をまとめると、秦一族のルーツはこんな感じ。
応神天皇16年(西暦285年?年代は不明確)弓月君(ゆづきのきみ)が120の県(こおり)の人民を従え日本に移住し帰化、山背国(京都南部)を拠点とし日本全国に分布する。朝廷の蔵など財政面を司る一方、新羅系の技術者を擁して各種技術部門の主導権を握り、鉱山開発や土木事業など殖産氏族としての活動が顕著であった。
ちなみに「秦」という名前には、
◯秦の始皇帝の末裔が中国から半島南部に逃れ、一族で「秦」を名告っていたという説
◯弓月君の連れてきた民は養蚕や職絹に従事しており、その絹織物が柔らかく「肌」のようにあたたかいことから「波多」の名を賜ったという説
◯朝鮮語で「海」を意味する「パダ」に由来するという説
等など諸説あるが、このように大陸や朝鮮半島からたくさんの人々と技術が日本に渡来したことで、大和朝廷が大いに栄えたことは確からしい。

この弓月君、本当に秦の始皇帝の末裔であったかどうかはわからないが、「120の県の人民」を連れて…とはなかなか凄い。始皇帝が作った郡県制は、郡・県・郷・里の順に分かれている。上から2番目の単位である「県」、どのくらいの人数になるのかはよくわからないが、一県あたり100人としても1万2千人!これだけの人民をまとめ上げ新天地へと導いたその求心力、半端ではない。そしてそういった人物に「奏上」された応神天皇の器の大きさ。移住の希望を受け入れ人を派遣するも、新羅の妨害でなかなか叶わず三年が経つとみるや、新羅国境にさらなる精鋭を差し向け、約束通り無事弓月君一行を渡来させた。聖徳太子よりさらに数百年もさかのぼり、まだ日本という名前もついていない海を隔てた辺境の地が、長く続く戦乱に蹂躙されつづけてきた人々にとって、一か八かに賭ける価値のある希望の国だったのかと思うとゾクゾクする。

平均寿命が今の半分以下だった時代、戦乱を、危険な船旅を生き延び、知らない土地・知らない人々の間で働き生きていくというのがどれほどすごいことか、想像を超えている。ほとんど奇跡に近いほどの運の強さ、超人的な体力気力・バイタリティのある人間ばかりの集団、しかもただの難民ではない技術者集団を受け入れることは、日本国にとっても十二分にメリットがあった。天皇のもとにまとまった平和な国に、一族は馴染み溶け込んで全国へと散っていった。彼らの持つ技術には、政治的立場や思想は関係ない。技術に対する敬意と、必要な対価を支払う能力がある人間に請われれば、どこでも自由に行っただろう。気に入った土地には長く住みついて、地元の人間と結婚し、跡継ぎを育てたりもしただろう。そういう動きの中のひとつにきっと、紙の製法もあったにちがいない。
                                    >>続く
【参考】
世界大百科事典 第二版「秦氏」の解説
日本大百科全書(ニッポニカ)「秦氏」の解説
wikipedia 秦氏、応神天皇、弓月君

続いてきた理由 三2015/07/19 15:02


関東ついに梅雨明け!暑いです!(記事と画像はあんまりというか全然関係なし^^;)

さてここでまたまた聖徳太子に話を戻し、関連する年表をおさらいしてみる。

574年 誕生(厩戸皇子となのる)
593年 皇太子となり摂政の任に就く(数え年20歳)
594年 仏教興隆の詔を発する
603年 冠位十二階を制定(30歳)
604年 十七条の憲法制定
607年 遣隋使派遣
610年 中国より曇徴来朝、紙の製法を伝える
611-615年 「三経義疏」を著す
615年 「法華義疏」を著す
622年 死去(享年49歳)

この歳になってあらためてこの年表をみてみると、

20歳で(!)摂政という国の政治を動かす地位につき、
30歳から破竹の勢いで新制度を打ちたて運用し、
当時の最高技術を外国から取り入れ国内外から職人も集め、
寺社建築・製紙普及という一大公共事業を各地で多数執り行う中
自分自身でもいろいろ造ったり書いたりして、
さらに外交でも大国に対し一歩も引かず独立国家として自国をアピール

…って、どんだけ超人なのか…

当時の実力者・蘇我馬子がバックにいるとはいえ、摂政になった翌年いきなり仏教やります宣言をしているあたり、よほど若い頃からいろいろと国のために何をなすべきか考えながら、勉強したりしかるべき人と繋がりをつけたりして準備していたんだろう。当時の仏教は学問であり、最高の知性がそこに結集していたから、仏教を広めることすなわち日本人の知力UPに繋がるとの思惑もあったと思う。それだけではなく、製紙という産業の世界的な将来性に気づき、いち早く国内生産の道をつける当たり、おそるべき慧眼だ。そして遣隋使を送った年の三年後には曇徴を招聘しておそらく最新の紙の製法を学び、翌年から仏教についての書を作り始める(=書きつけるための紙も当然用意したろう)というとてつもないスピード感。

聖徳太子については様々な伝説が残っており、十人の話をいっぺんに聞いていっぺんに答えたとか。それくらい聞き上手だったということなのだろう。人は誰しも自分の話を聞いてほしいもの。最初から最後まで真摯に耳を傾けてくれて、的確なアドバイスなり回答なりを与えてくれるような上司を慕わない部下はいない。太子は、当時日本で普通に採れた楮を使って今日の和紙の原型となる紙をつくりだしたと言われているが、なるほどこういう人ならばやりかねない、というかきっとやったに違いない。骨身を惜しまず協力する人間も数多くいただろうと思う。紙というものは飛鳥時代よりもっと昔からあったけれど、製紙業を日本の一大産業として育て広めたのは、確実に太子の類まれな才能・人徳による偉大な功績といって過言ではない。

そんな超人・太子の側近として歴史に名を残している
秦河勝(はたの かわかつ)
渡来人集団のひとつ、紙と関係の深い秦氏について次は考えてみます。
                                  >>続く

続いてきた理由 二2015/07/06 14:36

日本に製紙を広めるきっかけを作ったのは聖徳太子

というのが前回のお話でした。今日はそこから少々時代を遡ってみます(授業っぽい(^^))。そもそも、紙という技術が生まれたのはなぜか?どこから?

紙以前に、「ペーパー」の語源にもなった古代エジプトのパピルス、メソポタミアの粘土板、古代中国の甲骨、東南アジアの木の葉や樹皮などなど、古くから世界各地で何らかの「記録」が行われていたことは確かです。衣食住を満たすこともままならなかった時代なのに、いや多分そういう時代だからこそ?個々がもつ知識や情報を形に残し子孫に伝えることで、自らの属する集団を長く存続させていこうとしたのではないか?共同体のスケールが大きくなり、ひとつの国としてまとまってくればなおさらその必要性は高まったことでしょう。「紙」が記録のための媒体として選ばれ、ブラッシュアップされつつ凄い勢いで世界各地に広がっていったのは、必然の流れだったのかもしれません。

ちなみに、長く「紙の発明者」とされていた蔡倫は実は「偉大な製紙技術の改良者」であった、というのが今では定説となっています。蔡倫は後漢時代の人で、西暦105年に紙をつくり皇帝に奉ったところ、帝はその才をいたく褒められ、これよりこの紙を用いないことはなかった…と「後漢書」に記載されています。(←漢文っぽい表現ですねー。つまりもうこれからはこれしか使わない!というくらい出来が良かったということです(^^))

」という漢字は、蔡倫以前から存在していました。
糸:蚕糸を撚り合わせた形により糸を示す象形文字
氏:匙の形を示す象形文字、滑らかなことを表す
すなわち糸+氏で
蚕糸を匙のように滑らかに薄く平らに漉いた、柔らかいもの
をいいます。つまり中国において、元々の紙の原料は「絹」だったのですね!
ただし絹を原料とした紙はもろく、保存性も悪くさらに高価でもあったので、安価で丈夫な麻などの植物性原料にとってかわられたようです。蔡倫より前、前漢時代の遺跡から出土した紙の原料はすべて麻類の繊維でした。
蔡倫は発明者ではないものの、紙という製品を製法から見直し、コスト的にも品質的にも大幅に改良・実用化しました。情報が書き込める書写材料としての紙の完成により、用途も広がり需要も増え、業としての製紙法も確立、豊富な生産を可能としました。その結果紙は中国のみならず全世界に広がり、印刷技術の発展のきっかけにもなりました。
さすがは「歴史を創った100人」中七位にランクインした蔡倫さんです。

さて話を日本に戻します。聖徳太子の時代、既に紙は日本にありました。1世紀頃から大陸との国交により人や物の往来があったことで、日本人はかなり昔から紙というものを知っていたようです。現に、285年「論語」「千字文」などの書物が中国から日本に送られてきた、と日本書紀に記されています。
ただ蔡倫の紙「蔡侯紙」は麻や漁網といったいわゆる(ボロ布)で作られていて、仕上がりがあまりキレイではなかったのと扱いが難しかったのとで、日本では以前から織物に使われていた楮などの靭皮繊維を原料とした紙が好まれたようです。
!!!楮!!!

                                    >>続く
参考資料:「越前和紙の里」岡本小学校
「髪の歴史と製紙産業の歩み」財団法人 紙の博物館
ホームページ「紙への道」←かなり秀逸なサイトです、必見。