不思議な石のはなし その22010/01/08 16:01

        「HESOMORI」の撮影場所を見つめる報恩の石。

おととしの夏のこと。

実家の庭には、「HESOMORI」のロケ場所と同様、石工の曾祖父が持ち込んだ石が沢山置いてある。その多くはモクと呼ばれる苔(正式名称は不明)に覆われて、木々や植え込みの間にひっそりと佇んでいる。

「あれは”護石”(ごいし)やで。家を守る石なんやから、モクで隠してもうたらあかん。全部取ってまわな」
実家の縁側に腰をかけながら呟いたのは、母の兄、つまり私の伯父である。
くだんの石に、そのような意味合いがあることなど誰も知らなかった。慣れ親しんだ石ではある。兄二人も私も、小さいころよく上に乗ったり飛び石代わりにして(!)遊んでいた。石の根元には地蜘蛛がよく巣をつくっていたものだ。
伯父が言うには、石を扱う人であれば、当然置く位置も何らかの考えや意味を持たせるはず、向きからして明らかだ、とのこと。

後日、伯父は夫婦そろって再度実家を訪問。”護石”の周りの雑草を抜き、伸び過ぎたツツジの植え込みをバサバサと刈り取り、さらに石を覆っていたモクをすべて取り去った。
「ほら、石に白くて丸い模様が浮き出てるやろ? これも苔なんやけど、本来石の表情を作るべきはこの種類なんや。モクやと、息ができんし水気を持つんで、石が割れてしまう」
伯父はさっぱりとした石の姿を満足そうに眺めると、取り去った袋一杯のモクと一緒に帰っていった。
母には、余計なものを除けた石がなんとなく痛々しいような、寒々しいような感じがしたが、父は「(伯父が)ほう言うんなら、ほうかもしれんな」と平然としたものだったという。後から伯父が電話をかけてきて
「えらんことやったかな、あんなにぱぱっと好き勝手にしてもうて。にいさん(父のこと)は気悪うしてなかったかな」
と心配していたが、母は父の様子から考えて、そんなことはない、良うしとっけた、と答えたそうだ。

その話を聞いたあと「HESOMORI」撮影場所である杉林を、次兄とともに訪れた。
川でダムを作って遊ぶ子どもたちの目の先には「南無阿弥陀仏」と書いた石がある。それは林の外を向いて立っているが、入口近くにある「報恩」の石の向きは何故か山側だ。
「うち(実家)の方を向いてるんでないか?」
と呟く次兄に、それなら庭の石と同じように苔を取り払った方がいいのかなと言ったら
「あかん。このままがいいんや。自然のままで」
と返された。

あらためて庭を眺めてみると、確かに石はきれいさっぱりとして、縁側からその姿がよく見える。おととしのことならば、去年の春の祭りのときも、夏休みにもこの姿だったはずなのに、まったく気付かなかった。母にしても、私に話すことすら忘れていた、「HESOMORI」の話が来るまでは。
庭の写真を撮ろうと思ったが、携帯カメラでは……と、夫がカメラを持って福井に来るのを待っていたら、その夜から降り始めた雪ですっかり隠されてしまった。

雪がとける春には何が待っているのだろうか。

コメント

_ ヴァッキーノ ― 2010/01/09 15:33

ほ~ん。
てなわけで、ボクはたまにふと感心することがるんです。
それは、神様につける名前の多様さです。
石や、川にまで神様の名前がついてるじゃないですか。
そいうアイデアってどこからでてくるんでしょうね?
ゼロって概念をインド人は確立したっていうけど、ゼロのものに
神様を見出すってのもかなりスゴイことだと思うんです。
ボクもそういうふうに、神様や妖怪の名前をポンポン思い浮かべば
妖怪退治のお話とかがスラスラ書けるのになあ(笑)
ところで、おさかさんはこの映画では、誰と闘う役なんですか?(逃っ!)

_ おさか ― 2010/01/09 16:27

ヴァッキーさん
そりゃあ、やおよろずの神ってやつですよ
日本人の心ですがな
わけのわからないものは何でもとりあえず神様ってことにしておいたんでしょう

ところで昨日の「もののけ姫」を貫く思想はやおよろずじゃなく一神教だとうちの旦那は主張していたんですがどう思います?
だいだらぼっち、が全能の神なんだって
うーん、私は違う気がするが・・・反論する言葉がみつからん
そういう「わけわからないもの」の象徴って感じがするけどなあ
親玉といえばそうなんだけど、祟り神も守り神も、下とか上とかじゃなく
フラットな関係って感じがする

>誰と闘う役なんですか?
えーとねー、あずき洗い。洗うだけじゃなく煮てくれってあんこ作りを強要する役なのよおほほほほ
ああ、大福食べたくなってきた

_ おっちー ― 2010/01/17 03:03

 僕らって結局都会ってヤツの中に住んでるんですけど、そこに神を感じることは少ないんですよね。
 でも見い出してもいいと思うんです。
 都会の中にも、神社とか、それこそ立石様とか、信仰や崇め奉る対象はあるわけで。
 自然に近い、意味を持つものには神が住んで、人の手で作った意味のあるものは憧れの対象にしかならない。
 それでいいんだろうけど、作った人たちの魂を感じる建造物って、今の日本にはあるんかなあ。
 そういうのを見付けると、僕はとても誇らしい気持ちになるんですが。
 あんまり文脈がまとまりません。

 ところで、僕は、ダイダラボッチがやおよろずの神の総元締めって感じで描いてるんだろうな、って観てました。
 あの神様だけ扱いが別格なんですよね。
 他の神様たちは自然の現象や動物の一つ一つをつかさどって、ダイダラさんは太陽の浮き沈みとか、生き物全体の命とか、同じ自然でもすげーでっかい現象に関わってる神様って描いてるように見えました。
 結局宮崎駿さんの、絵コンテを作成する時のさじ加減ひとつで全てが決まる。
 あの方の頭の中の世界観が決めているものという気がします。

_ おさか ― 2010/01/17 20:41

おっちーさん
いらさいませー♪ 

>あの方の頭の中の世界観が決めているものという気がします
宮崎さんが心の中に持っている、世界への、自然への畏れ、畏敬の念そのものだと思います
元締め、といえばそうなのだけど
私は、祟り神も犬神も、小さなコダマにいたるまで、そして人間さえも
その大きなものの一部分であり全体であると思う
部分が全体というか・・・だからダイダラボッチは祟り神でもあり犬神でもありちっぽけなコダマでもあり、人間そのものでもある
こういう考え方は多分一神教じゃないと思うのよね

だから「私」はちっぽけで取るに足りない存在だけど、同時にとてつもなく大きい存在でもある、といえる
過度に卑下することもなく、自信過剰になることもなく
今年も頑張っていきましょう♪

_ 儚い預言者 ― 2010/01/22 15:16

 素晴らしいです、おさかさんのレス。小なるは大なり、大なりは小なり。みたいなホログラフィックであることは、逆にいえばいまここに答えがあるということ。青い鳥もいまここで美しく鳴いている。また上にあるごとく、下もかくあり。みたいな相似形なのでしょう。
 そういえば一神教もアニミズムもただの区分けであるのに、人間は原理主義みたいにすぐに尖端化して、その他を排除しようとする。主客の分離が科学の発展を興したが、行き着いたのは何だろう。もう一度還る場所を探さなくてはならない気がする。
 本当はひとつなのに、なぜ争うのだろうか。自然は欺かない、天変地異が多くなるのは、温暖化ではなく、というか、人類という本来地球の守護者の、余りの暴挙に、地球が素直に応えているだけかもしれません。

_ おさか ― 2010/01/23 15:53

預言者様

>人類という本来地球の守護者の、余りの暴挙に、地球が素直に応えているだけかもしれません
悲しいことですよね。
いろんなことに対し、ただ祈ることしかできませんが……それでも何かの力になっていると思いたいです。すべてが本当にひとつなら。
いつもありがとうございます。

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