とあるエピソード 五 ― 2009/09/25 13:50

引き戸を開けた途端仰天した。
「ようこそいらっしゃいませ」「お待ち申しあげておりました」
宿の女将はじめ五、六人の仲居が横一列にずらりと並び、一斉に声をあげた。
部屋に案内され、温かな料理で丁重にもてなされ温泉も一応入ったものの、慌ただしさは否めなかった。
「もう一晩、泊まらせてもらうわけにはいかんか?」
朝になり、給仕をしに来た女将に久嗣が尋ねた。
「申し訳ありません、今日はもう一杯になっておりまして……」
温泉旅館の常として、おなじ宿に二泊するという客、予約なしの飛び込みの客というのはほとんどおらず、繁忙期ということもあり、代わりの旅館はなかなかみつからなかった。
ようやく一軒だけ、空きがある、どうぞおいで下さいと返事が来た。
「そこが、今いるこの旅館です」
息子や娘一家が並ぶ席からへぇーと声が上がった。美津子は微笑みながら話を終えた。
支配人と女将が祝いの品と酒を抱えて部屋に入ってきた。
「本日は、金婚式おめでとうございます」
拍手が鳴り響いた。
あれから五十年。
久嗣と美津子が営んできた越前和紙工場の製品は、この旅館のそこかしこに置かれている。
襖や屏風はもちろんのこと、部屋や廊下、休み処の灯り。
浴衣置き。
備長炭を差し挟んだ壁飾り。
正月飾りも、夏のうちわも。
「ここ、おばあちゃんちの紙ばっかりだね」
孫娘がひとつひとつ指さして笑う。
あの日の、若い運転手も、雨も、側溝にはまった前後の車輪も、手伝ってくれた名も知らない人たちも、揃って出迎えてくれた旅館の人たちも、すべてがつながっている。
年を取るということを、諸手をあげて大歓迎、はできないが。
美津子は孫娘の柔らかな髪を撫でて微笑んだ。
そう悪くもない、かもしれない。
何気ない日々のすべてが、何かの始まりなのだとすれば。
此処にいる私が、何処か違う場所や人につながっていくのだとすれば。
浴衣姿で飛び跳ねる孫の、後ろで結わえた長い髪がさらさらと揺れた。
<了>
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