続いてきた理由 八2017/06/13 10:30

気がついたら「七」から一年以上過ぎてた…気を取り直してゆるゆる続きます。

さて、紙祖神・川上御前を祀る大瀧神社は来年の1300年大祭を前に、地元でさまざまな準備が同時進行しております。「わし太夫」にボチボチ記事が載っておりますが、大祭は地域にとって大規模メンテナンスの絶好の機会でもあります。年数を経て傷んできた箇所の点検・補修・改修は神社仏閣にとどまらず、一人一人が自分の家やその周辺も整えるため、地域全体が一種独特の緊張感に包まれます。33年ごと・50年ごとという、昔の平均寿命を考えると人ひとり一生に一度あるかないかのお祭りを、時の政権や法律等に依らない地元民のコミュニティレベルで代々繋いでいくシステムが成り立っているというのは驚くべきことです。

以下、御開帳(おかいちょう:33年ごとに行われる仏式の節目の大祭)と御神忌(中開帳 なかがいちょう:50年ごとに行われる神式の大祭→来年はこちら)が行われた年代と回数を示します。
なお1575(天正3年)に織田信長の武将・滝川一益により大滝寺の堂舎は焼亡、これより前の資料は失われたため、記録に残されているのは1585年以降です。

1585(天生13年) 第26回 御開帳
1617(元和3年) 第27回 御開帳
1618(元和4年) 900歳 御神忌
1650(慶安3年) 第28回 御開帳
1667(霊元7年) 950歳 御神忌
1683(天和3年) 第29回 御開帳
1716(正徳6年) 第30回 御開帳
---この年6月、享保と改む
1718(享保3年) 1000歳 御神忌
1748(延享5年) 第31回 御開帳(3/20-4/20)
---この年7月12日、寛延と改む
1768(明和5年) 1050歳 御神忌
1780(安永9年) 第32回 御開帳(3/23-4/23)
1812(文化9年) 第33回 御開帳
1818(文化15年)1100歳 御神忌(3/5-11)
1844(天保15年) 第34回 御開帳(3/23-4/23)
---この年12月2日、弘化と改む
1866(慶応2年) 1150歳 御神忌
1876(明治9年) 第35回 御開帳(4/27-5/1)
1908(明治41年) 第36回 大祭典
1918(大正7年) 1200年大祭(4/14-20)
1940(昭和15年) 第37回 式年大祭(6/11-15)
1968(昭和43年) 1250年大祭(5/2-5)
1973(昭和48年) 第38回 式年大祭(5/3-6)
2009(平成21年) 第39回 式年大祭(5/2-5)
そして来年、
2018年(平成30年) 1300年大祭(5/2-5)
となっています。ちなみに何で来年が1300年かといいますと、大滝神社の始まりが719年とされているからです。(数え年ですね)
719年。前年に白山を開闢した「越の大徳」泰澄大師が戸谷村(旧武生市戸谷町)にて説法をしていたとき、南東の方向に毎朝紫雲がたなびくのを見た。不思議に思いその地を訪ねたところ、清い滝がありその響きが音楽のようであったため里の名を大滝と改めた。さらにその滝の東北東にある山を登ると杉の大木があり、枝が紫雲に覆われていた。峯を巡ると白山が見えたので拝願し、
「この山は霊地であるから権現の御影向(ごようごう)を図(うつ)したまえ」
と一心に祈念すると、白山より金色の大光明が放たれ、5・6歳の児(ちご)が大師の膝の上に来現、たちまちにして白玉と化したのでこれを石唐櫃に納め埋められた。以後、川上御前を含む神々を祀る大滝兒(ちご)権現、大滝寺が開創された。
(この縁起については「泰澄大師御自筆の巻経があったが、信長軍の攻撃により焼失したため元祖大師から伝聞し授受した所を付記」したとする天正13年9月6日付の記録が残っている)

小さな里の祭りが、これだけの長い年月、社会状況が大幅に変わっても途切れることなく、そればかりか古代からの形式そのまま純粋な形で引き継がれてきた……元々神道方支配と仏教方支配とに分けて祭事を行っていたため、明治期の神仏分離政策にも影響されなかったのだそうです。神と仏は別のものであるという最初の前提から離れることなく、それぞれ尊重すべきものとして対応してきたと考えると、単に「変えなかった」のではなく、非常に理知的な判断を以てあえてそのまま維持するという、強い意志の存在をも感じます。
水の神に呼ばれた川上御前がまします山、そこにかかる雲が泰澄大師を引き寄せ、流れる美しい水の音にちなんだ名前を授けられた土地はたくさんの神と紙によって守られることとなった。生命の源である水、その水を豊富に与えてくださる山やま、そこで紙すきを教えてくださった川上御前、神仏と触れ合う場所をととのえてくださった泰澄大師、そして今までその地に住み仕事を続けてきた名もなき先人たち。これらすべてのものへの敬意と感謝の心が、それぞれの身分や地位や立場、時代をも超えて脈々と繋がっている―ーーそれこそが真に「伝統」と呼べるものだとすると、越前和紙の里は古来から自然と「伝統」を体現している稀有な土地といえるでしょう。

参考:「神と紙 その郷」紙祖神岡太神社・大滝神社 重要文化財指定記念誌

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