とあるエピソード 一2009/09/09 11:10

1957 トヨペット クラウンデラックス
「すんません、僕まだ新米なもんで、道ようわかりませんのです」
 まだ十代にもみえる若いタクシー運転手は、すまなさそうに頭を下げた。
 なんやほうなんか、ちょっと待てといって久嗣が車を降り、助手席にまわった。今日久嗣の妻となったばかりの美津子は、ひとり後部座席に残され、所在なく窓の外を眺めているほかなかった。

 その年四月には皇太子殿下と正田美智子さまのご成婚が執り行われ、日本中が祝福にわきかえった。それから一カ月あと、久嗣と美津子の結婚式も、親族や友人のみならず、道々見知らぬ人々にも祝福され、畏れ多くも皇室の慶びごとにあやかった幸運に、ひそかに胸を震わせていたのだが。
 若い運転手はどうやら、運転もあまりうまくないものとみえて、夫はカーブの曲がり方、追い越し方追い越され方までこまかく指示を出している。
 夫婦としての記念すべき第一日目に、いったいこの先どうなってしまうんだろう。美津子は車窓から灰色の空を見上げた。折あしく、ぽつぽつと雨さえ降ってきた。

とあるエピソード 二2009/09/11 12:37

 さほどひどい雨ではなかった。が、目的の温泉地に行くまでは、けっこうな山道をのぼらねばならない。慣れない道の上、ところどころ舗装していない箇所もあり、車は遅々としてすすまなかった。
 夫の久嗣が腕時計を見てため息をついた。宿に当初伝えた到着予定時間をとうに過ぎている。連絡しようにも、田舎のタクシーに電話などついていようはずもなかった。
 運転手は方向も何もわからないらしく、曲がり角や交差点の度に一々久嗣に聞いてくる。だが久嗣といえども、それほどこのあたりの道に詳しいわけではない。似たような道筋を一本間違え、どこをどう走ったものか、全然見当違いの場所に出てしまった。とりあえず元の道に戻ろうと、バックをかけた途端、がくんと車体が傾き、動かなくなった。
 あわてて外に出ると、左側の前輪と後輪両方とも、側溝にはまってしまっていた。
 久嗣が外に出て押したが、びくともしない。美津子も、晴れ着が雨に濡れるのも構わず手伝ったが、ダメだった。田舎の山道のこと故、通る車もすくない。雨のためか通行人さえもいない。ただ、集落のようなものは薄暮の中、近くにぽつぽつと見える。
 運転手は半泣きの顔で、誰か探してきますといって走り去った。

とあるエピソード 三2009/09/14 16:57

 運転手の連れてきた、小柄ながら屈強そうな農家の男三人、久嗣、美津子の五人がかりで車を押したが、暫くはどうにもならなかった。
「完全にスリップしてもてるわ、こらあかん」
 久嗣が大きな石を集め始めた。男が二人、どこからかおが屑の袋を持ってきた。ぬかるんだ地面を固め、車を道路に戻したときには、車輪が嵌まり込んでからすでに二時間以上経っていた。
 目的地への正しい道をかれらに教えてもらい、車はようやっと暗い道を発進した。車中では、久嗣が時折指示を出す以外は、誰の声もしない。今何時かと聞くこともかなわない気まずい沈黙の中で、美津子は空腹を悟られないよう掌でお腹を押さえていた。
 披露宴のご馳走は、緊張のあまり箸をつけたのかつけていないのかさえ記憶にない。おそらく口にはほとんど入っていないだろう。久嗣はどうなのだろうか。自分のことさえこうなのだから、まして久嗣がどの程度食べていたかなど、まったくわからない。お酒はけっこう飲まされていたようだけれど……美津子の顔に笑みが浮かんだ。
 今朝のことなのに、もうすごく昔のことみたい。
 車は暗い山道をひた走っていた。

♪♪このお話に合う写真を募集♪♪

おしらせ♪2009/09/18 15:06

おさかの実家、またもやテレビに出ます

9月19日(土)19:30~20:00
BSジャパン
『キャノン・プレミアム・アーカイブス 
写真家たちの日本紀行 ~未来に残したい情景~』
・・・越前和紙の里(こちらの方です)
http://cweb.canon.jp/event/culture/premium-archives/

9月26日(土)19:30~20:00
・・・越前海岸沿い(福井県の海岸です、国定公園でございます。きれいですよ♪)

「福井の旅」二回分は、藤井秀樹氏が担当なさっております
http://fotonoma.jp/photographer/2001_06fujii/index.html

ナレーターは竹下景子さん

よろしければ、ご覧になってみてくださいませ♪

9/19追記:
再放送は9月26日(土)14時00分~14時30分
です、見逃した方はこちらをどうぞ

とあるエピソード 四2009/09/24 20:36

「おばあちゃん、タクシーの運転手さんはどうしたの? 平謝り?」
「ほんなことせんよ。旅館着いて、荷物下ろして、はいご苦労さんで普通に帰んなった」
「ふうん、今だったらクレームとか大変だよね。タクシー運転手の癖に道も知らんのか! とか、運転下手だとか、到着が大幅に遅れてどうしてくれる! とか」
「あはは、私も今やったらちょっと言うたかもしらん」
「でしょ」
「でも昔はほんなこと言う、なんてこと思いもつかんかった。若かったっていうのもあるけど、ただ、起こったことに対して、皆でどうしよって考えて、それぞれの出来ることをしてただけや。雨降ってるから傘でもさしかけよ、とかの」
「すぐ誰の責任とか何とか、て言わないわけね」
「そう」
「おじいちゃんも、声を荒げたり怒ったりはしなかったのね」
「もちろんや。ああすればこうすれば、って言うてただけで」
「でも、いくら昔って言っても、そういう時に威張り散らすような人はいたわけでしょ?」
「うん。特に自分の奥さんの前だと、男の威厳をみせるって目的で、そういう態度を取る人もいた」
「女の人だって、ぶんむくれちゃう人もいるでしょ?」
「ほやの。ぷん、として車にこもるとかの」
「でもおばあちゃんはそうしなかった。一緒に動いた」
「うん」
「そういう二人だったから、今まで続いてきたんじゃないの?」