続いてきた理由 二2015/07/06 14:36

日本に製紙を広めるきっかけを作ったのは聖徳太子

というのが前回のお話でした。今日はそこから少々時代を遡ってみます(授業っぽい(^^))。そもそも、紙という技術が生まれたのはなぜか?どこから?

紙以前に、「ペーパー」の語源にもなった古代エジプトのパピルス、メソポタミアの粘土板、古代中国の甲骨、東南アジアの木の葉や樹皮などなど、古くから世界各地で何らかの「記録」が行われていたことは確かです。衣食住を満たすこともままならなかった時代なのに、いや多分そういう時代だからこそ?個々がもつ知識や情報を形に残し子孫に伝えることで、自らの属する集団を長く存続させていこうとしたのではないか?共同体のスケールが大きくなり、ひとつの国としてまとまってくればなおさらその必要性は高まったことでしょう。「紙」が記録のための媒体として選ばれ、ブラッシュアップされつつ凄い勢いで世界各地に広がっていったのは、必然の流れだったのかもしれません。

ちなみに、長く「紙の発明者」とされていた蔡倫は実は「偉大な製紙技術の改良者」であった、というのが今では定説となっています。蔡倫は後漢時代の人で、西暦105年に紙をつくり皇帝に奉ったところ、帝はその才をいたく褒められ、これよりこの紙を用いないことはなかった…と「後漢書」に記載されています。(←漢文っぽい表現ですねー。つまりもうこれからはこれしか使わない!というくらい出来が良かったということです(^^))

」という漢字は、蔡倫以前から存在していました。
糸:蚕糸を撚り合わせた形により糸を示す象形文字
氏:匙の形を示す象形文字、滑らかなことを表す
すなわち糸+氏で
蚕糸を匙のように滑らかに薄く平らに漉いた、柔らかいもの
をいいます。つまり中国において、元々の紙の原料は「絹」だったのですね!
ただし絹を原料とした紙はもろく、保存性も悪くさらに高価でもあったので、安価で丈夫な麻などの植物性原料にとってかわられたようです。蔡倫より前、前漢時代の遺跡から出土した紙の原料はすべて麻類の繊維でした。
蔡倫は発明者ではないものの、紙という製品を製法から見直し、コスト的にも品質的にも大幅に改良・実用化しました。情報が書き込める書写材料としての紙の完成により、用途も広がり需要も増え、業としての製紙法も確立、豊富な生産を可能としました。その結果紙は中国のみならず全世界に広がり、印刷技術の発展のきっかけにもなりました。
さすがは「歴史を創った100人」中七位にランクインした蔡倫さんです。

さて話を日本に戻します。聖徳太子の時代、既に紙は日本にありました。1世紀頃から大陸との国交により人や物の往来があったことで、日本人はかなり昔から紙というものを知っていたようです。現に、285年「論語」「千字文」などの書物が中国から日本に送られてきた、と日本書紀に記されています。
ただ蔡倫の紙「蔡侯紙」は麻や漁網といったいわゆる(ボロ布)で作られていて、仕上がりがあまりキレイではなかったのと扱いが難しかったのとで、日本では以前から織物に使われていた楮などの靭皮繊維を原料とした紙が好まれたようです。
!!!楮!!!

                                    >>続く
参考資料:「越前和紙の里」岡本小学校
「紙の歴史と製紙産業の歩み」財団法人 紙の博物館
ホームページ「紙への道」←かなり秀逸なサイトです、必見。

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