しばらく暑さで溶けていました。気づけば盆明けで雨も降ってすっかり涼しく(^_^;)休みボケで頭が働きませんが(それはいつもか)がんばって更新。
こちらは帰省時に初めて入った「記憶の家」。思った以上にすっきりした居心地の良い空間でした。千客万来♪
さて、秦氏。
ネット検索を駆使し調べた結果をまとめると、秦一族のルーツはこんな感じ。
応神天皇16年(西暦285年?年代は不明確)弓月君(ゆづきのきみ)が120の県(こおり)の人民を従え日本に移住し帰化、山背国(京都南部)を拠点とし日本全国に分布する。朝廷の蔵など財政面を司る一方、新羅系の技術者を擁して各種技術部門の主導権を握り、鉱山開発や土木事業など殖産氏族としての活動が顕著であった。
ちなみに「秦」という名前には、
◯秦の始皇帝の末裔が中国から半島南部に逃れ、一族で「秦」を名告っていたという説
◯弓月君の連れてきた民は養蚕や職絹に従事しており、その絹織物が柔らかく「肌」のようにあたたかいことから「波多」の名を賜ったという説
◯朝鮮語で「海」を意味する「パダ」に由来するという説
等など諸説あるが、このように大陸や朝鮮半島からたくさんの人々と技術が日本に渡来したことで、大和朝廷が大いに栄えたことは確からしい。
この弓月君、本当に秦の始皇帝の末裔であったかどうかはわからないが、「120の県の人民」を連れて…とはなかなか凄い。始皇帝が作った郡県制は、郡・県・郷・里の順に分かれている。上から2番目の単位である「県」、どのくらいの人数になるのかはよくわからないが、一県あたり100人としても1万2千人!これだけの人民をまとめ上げ新天地へと導いたその求心力、半端ではない。そしてそういった人物に「奏上」された応神天皇の器の大きさ。移住の希望を受け入れ人を派遣するも、新羅の妨害でなかなか叶わず三年が経つとみるや、新羅国境にさらなる精鋭を差し向け、約束通り無事弓月君一行を渡来させた。聖徳太子よりさらに数百年もさかのぼり、まだ日本という名前もついていない海を隔てた辺境の地が、長く続く戦乱に蹂躙されつづけてきた人々にとって、一か八かに賭ける価値のある希望の国だったのかと思うとゾクゾクする。
平均寿命が今の半分以下だった時代、戦乱を、危険な船旅を生き延び、知らない土地・知らない人々の間で働き生きていくというのがどれほどすごいことか、想像を超えている。ほとんど奇跡に近いほどの運の強さ、超人的な体力気力・バイタリティのある人間ばかりの集団、しかもただの難民ではない技術者集団を受け入れることは、日本国にとっても十二分にメリットがあった。天皇のもとにまとまった平和な国に、一族は馴染み溶け込んで全国へと散っていった。彼らの持つ技術には、政治的立場や思想は関係ない。技術に対する敬意と、必要な対価を支払う能力がある人間に請われれば、どこでも自由に行っただろう。気に入った土地には長く住みついて、地元の人間と結婚し、跡継ぎを育てたりもしただろう。そういう動きの中のひとつにきっと、紙の製法もあったにちがいない。
>>続く
【参考】
世界大百科事典 第二版「秦氏」の解説
日本大百科全書(ニッポニカ)「秦氏」の解説
wikipedia 秦氏、応神天皇、弓月君
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