続いてきた理由 十三2020/01/10 16:05

旧い書籍とファイル。私にはお宝に見える
 久しぶりに「続いてきた理由」。随分間が空いてしまったので、前回からの続きと言うよりも、最近もろもろ思ったことをつらつらと。

 父が亡くなった2018年3月以降、実家の資料類の整理をはじめたのですが、これがまあ中々に一大仕事。マメな父だった故にとにかく量が多い!特に写真!昭和の半ば以降は写真時代といっても過言ではない、皆がカメラを持ち行った先々で撮りまくり、焼き増しして配り配られていた。日本全国でみたら一体どのくらいの枚数の写真があることでしょう。億ではきかないのではないでしょうか。実家のそれもご多分にもれずおそらく千単位、下手すると万に届く。これは大変だ。
 母は捨ててしまってもいいと言う。どうせ誰も見ないからと。何の役にも立たないしと。
 うーん。
 本当にそうか?

 年末に、美空ひばりさんのAIによるライブ映像を観ました(紅白でも出ましたね)。ステージに立つひばりさんは映像であり、歌声も機械によるもの。それでも観客は感動し、司会者は涙にむせて暫く何も喋れなくなっていました。こういったやり方に賛否はあるでしょう。作ったご本人も無暗に何でもやろうとは思わない、慎重に扱うべきと仰っていました。確かに、元の歌ならともかく新曲を歌わせたり、本人がしてもいないコメントを言わせたりは、中々考えようが難しいことかもしれません。遺族の了承を得て・AIであるとはっきり明言し・観る人も選ぶ、といった様々な条件を付け制限をかけてやっと実現に漕ぎつけられたことなのだろうと察せられます。
 ただ考えてみれば、今自分たちが聞いている音楽、読んでいる本、観ている絵、勉強していること、すべて「かつて生きていた人」のものが多く含まれています。人類が言語を獲得し、記録を残すことが出来るようになって以来、どれだけの「データ」が積み上げられてきたか、それはもう気が遠くなるような量でしょう。
 この世の中全ては、誰かの作った、もしくは誰か自身のデータで出来ている。
 そう考えると、そもそも特定の人のデータを集約し再構成して作るAIの画像や音声は、単に昔から世界中で連綿と続いてきた営みの進化系として考えてもいい気がします。遺したいと思う気持ち、大事に保存して誰かに伝えたいと思う気持ち、そこは昔も今も本質的には変わらない部分でしょうから。
 

 で、ここで最初の疑問に戻りますが、そもそも今残っているものは当時本当に「価値あるもの」として扱われていたものばかりなのでしょうか?価値があるから残って来たのであって、無いものはおのずと淘汰されていった、という考え方ももちろんあるでしょう。しかし、世の中を眺めてみると案外そうでもない。ただそこに在り続けたから価値が出たというものも、長年棄ておかれていたが後世にはじめて価値を見出された、というものも多くある。
 してみると、今に生きる自分たちの尺度だけで「役に立つ・立たない」をはかるのは無理な話なのではないでしょうか。

 このシリーズ(なのか?)、ゆるゆると続きます。

続いてきた理由 十二2019/01/17 21:39

よくよく考えたら、十一の続きを書くのをすっかり忘れてました。あれじゃ単なる懐かし紀行文に。まあ別に大したこと書いてないですけどいつも(笑)

そもそもこの帰省は、
「亡き父の資料整理をするための整理のための調査」(※誤字ではありません)
を主目的としていたわけですが、ちょうど開催されていたRENEWというイベントもついでに観たいよね!てことでお出かけ。
実家より車で20分くらいの河和田町は既にRENEW一色。
カワイイ巡回バスが走っていたり
こういうディスプレイが至る所に。
本部はこの漆器会館。中々お洒落ですね。
土曜日ということもあり沢山の車と人。しかも圧倒的に若者が多いことに驚き
絶品の山うにたこやき。わし太夫、ごちです♪
普段は静かな田舎町が、ちょっぴりメイクアップして、扉を開き風と人を通し、テントを立てて飲食を振る舞う。お洒落なポスターや看板やPOPがあっても、取り囲む山や川の風景は昔から変わらぬ姿
いつからか実家に戻ると、何百年も前にここにいて、山や空を同じように観ていた人がいたんだよねーと感慨にふけるようになったのだが、ここに来て唐突に、自分もその歴史の一つを今まさに刻んでいると実感した。何年も先に、未来の誰かが同じように今の私に思いをはせたりするのかもしれない。飾られるもの、集う人はかわっても、続いていくかぎりはきっと。

福井県というところは不思議な所で、歴史を調べれば調べる程掴みどころがなくて、よくわからなくなる。京都にほど近く海にも面していて、外との交流は昔から盛んだった。大企業こそ少ないが、何かしら商売をやっている家の多い、まさに商工業者の県。政治的にもさして目立つことはないが、何故かここという時に一定の役割を果たしている。何気に教育レベルも高い。田舎独特の閉鎖的な部分もなくはないが、外から良いものや人を呼ぶことにかけては躊躇わない。こういう「市場」的なものをやるにはまさにもってこいの力量と気質があるのだと思う。
元々市場は物の売買を介して誰もが平等であることを神に許された「場」であった。地元の神様が現役バリバリで活動してらっしゃる福井は、まさにうってつけの商いの場である。皆さま、そんな福井へ是非お越しを。

続いてきた理由 十一2018/10/24 10:11

久しぶりに再会「続いてきた理由」でございます。

諸々あって、この間福井に単身帰省してまいりました。冠婚葬祭以外かつ家族抜きで福井入りしたのは…一回くらいはあったかな。思い出せない。
さて。大人の休日倶楽部会員限定のお得な「北陸フリーきっぷ」を手に、何年振りかわからない福井駅に降り立ちましたら、以前勝木書店前にあった福井鉄道(私鉄)の駅が西口出てすぐの場所にあるじゃありませんか!何これ新しくてキレイ!しかも電車が、
福井駅西口福鉄
FUKURAMですってよ奥様!いつのまにトラム型に!
こ・れ・は!カワ(・∀・)イイ!!
対面の丸っこい座席、ディズニーのより広々してて快適。いやホントに。一気に目覚める私の中の乗り鉄成分、これはテンション上がる。
今回の最初の目的地は「福井県立歴史博物館」。可愛いFUKURAMに乗ってほんの十数分で着いた田原町駅もこれ。
木造のすっきりとしたデザイン、シンプルでオシャレ。
しかし本当をいうと歴博に行くにはバスの方が近いし安い。福鉄のあまりの変わりっぷりについ乗ってしまったが、田原町駅からはフェニックス通りをてくてく歩いて十五分ほどかかる。バスだと隣接する公園前に停車するのでもっと楽に行ける、多分。
ちなみにこの辺りは明道館中学、北陸高校、福井大学、仁愛女子大など立ち並ぶ文教地区である。ともあれ幾久公園に入る。
テニスコートなどを横目に見つつどんどん奥に進むと、これまた新しくてキレイな建物。
実を言うと、福井歴博初の訪問でございます。
幕末明治福井150年博」の一環としてのこの企画。討幕派でも佐幕派でもない「公儀」を掲げた福井藩の動きを追った、とある。
この超気合の入ったポスターからもわかるように、物凄く充実した展示だった。NHKヒストリアの特集の影響もあってか、平日だというのに結構な人の数。皆さん一つ一つじっくりご覧になられていました。勿論私も。それにしても各地から集められた膨大な古文書の種類と数には驚いた。本当に眼福。筆書きって美しい、そして生々しい。安政の大獄で捕まった人たちの名前の上に、遠流だの死罪だの付箋が付いてるのにはちょっと冷える。
圧巻はやはり橋本佐内の啓発録。字が小さくて全部読み切れないが、これは本を買ってでも読むべき。15歳の恐るべき知性、未だに国内で学力上位を誇る福井県の底力の理由の一つが此処にある。超グローバル思考で怜悧冷徹、若くして刑に処されてしまったのも、発する言葉が、動きが、周囲に大きな影響力を与えずにおかなかった、その存在そのものに怖れをなしたものか。

歴博にこの「150年博」の冊子が置いてあるんだけれども、これまたとんでもない大掛かりな企画で、福井県の全文化施設をあげて多岐にわたる特集を組んでいる。私は幕末の辺りはぶっちゃけあまり興味が無かったのだが、
・松平文庫「士族」 福井文書館
・夏目漱石自筆のはがき(芳賀矢一宛) 福井県立こども歴史文化館
・御用諸向留(加藤河内家):太政官札製作に尽力 武生公会堂記念館
・水戸天狗党 兜のくわ形 能楽の里 文化交流会館
・駕籠(現存する唯一の将軍用男駕籠) 福井県立若狭歴史博物館
…書ききれない。
全部つぶさに見て回るとなると少なくとも一か月は必要かと。ああああ、何も無ければ行脚したい。どなたか、全館コンプリートブログなど書いておられぬものでしょうか。

ちなみに歴博には常設展もあり、こちらも中々です。
昭和のくらしエリアは撮影可なのも嬉しい。
こういうのを見ると、やたら断捨離と言って今必要でないもの全部捨てちゃうのもどうなの?て思ってしまう。ずっとずっと未来、自分がこの世からいなくなった後も、特に意味なく取って置いた物がこうして誰かの目を楽しませることが出来るかもしれない、って何か良くない?(勿論多すぎる物で子孫を困らせるのはダメだけど)。
個人的なお気に入りは、各地のお弁当の包みや割りばしの袋をキレイに貼りつけて、日付・天気・場所・お弁当の内容と味まで詳しく書きつけてるノート。これ完全にブログですよな(笑)。日本は世界一ブロガーが多いと聞きますが、やっぱり好きなんだよねこうして記録することが。
あと忘れちゃいけないオープン収蔵庫。これすごく見ごたえがあります。うっかり見過ごしてしまいそうな場所と「え、ここ入っていいの?」という雰囲気に尻込みしますがそこはガンガン行きましょう。福井市の昔を知る人には懐かしい「だるまや」の遺物がわんさか見れます。独特の、やや禍々しい感じがまたたまりません。

約一時間半、見て回ったら疲れたので休憩。
歴博茶房「ときめぐる、カフェー。」
焼きたてですよーと勧められたサクサクのコロッケパンとブルーベリーパン。コーヒーともども美味しうございました。
名残惜しくも歴博を出て、再度福鉄に乗るべく田原町駅へ向かったが、同じ道(フェニックス通り)を通るのは何だかなと思い脇道に入ったのが運の尽き。はい迷った!しかし明道館中学の、遠くからでも超目立つ校舎のお蔭で、十分ほど遠回りした程度で元の道に戻ることが出来ました。急行に乗り遅れて20分待つはめになりましたが(^_^;)まあそれもまた良きかな。

帰りの福鉄、越前武生まで約一時間の旅。垢ぬけたトラムもいいけどやっぱりコレよね。帰宅時間だったので乗客は多め、学生や勤め人。
暮れ行く車窓、一日の終わり
思い出しますねえ。高校時代、授業が終わってすぐ飛び乗って映画を観に行ったっけ。忘れもしない「2001年宇宙の旅」。あれは凄かったなあ。
越前武生駅に着いた頃にはとっぷりと日も暮れ、さてどうするか。タクシーでさっと帰るのもいいけど、ここはあえて路線バスで。
高校以来久しぶりのバスは五時半出発、乗客は私一人。若干コースに変化はあるものの、窓から見える風景はあの頃と同じ。というか夜なのでよく見えないだけなのだが(笑)そうそう、このくらい暗かった。
あまりに和み過ぎて写真撮るのも忘れた。というより、カメラを構える時間が何か勿体ない気がして、ただひたすらにぼーっとしてしまった。
結局終点の「和紙の里」まで貸し切り状態のバス。降りたところで入れ違いに高校生っぽい女子が一人乗っていった。うん、ちゃんと生きて続いてるこの路線。今後も頑張ってくださいまし。
そこから小学校時代の通学路をてくてく、実家に着いたのは6時過ぎ。福井駅に降り立ってから約五時間、色々と実り多く楽しいプチ一人旅でした。

【参考文献】
特別版・幕末維新の激動と福井 福井県立歴史博物館

続いてきた理由【特別篇】2017/11/29 15:47

ひとつ前の記事でご紹介した
「越前和紙人間国宝 岩野市兵衛さん×東大襖クラブ@駒場祭」
盛況のうちに無事終了いたしました。お忙しい中参加してくださった皆さま、誠にありがとうございました!
駒場東大11号館 看板
 当日11/25(日)、私は諸般の事情にて午後の部から参加。折しも午前中の人身事故で止まっていた井の頭線が動き出したばかりで、渋谷はいつも以上の人…と思ったら、乗客がほとんど駒場東大前で降りるじゃありませんか。狭い駅舎は人で満杯。聞くと三日間で15万人以上の人出らしい。正門から11号館はほど近いが大量の出店と人波に阻まれる。恐るべし駒場祭の集客パワー。
 辿り着いた1101は200人ほどのキャパ、大学の教室としてはこじんまりしている。入退場自由なのでドアは常時開放、外の賑やかな声が入る。瞬間、大丈夫かな?気が散らないだろうかと心配に。
しかしそこはさすがの市兵衛さん、口を開くや流れ出るその言葉に誰も彼も引き込まれてしまう。難しい言葉は何もない、ごくごくシンプルな語り口で時々ユーモアも交え、言葉がすんなり頭に染み込む。当ブログで「続いてきた理由」というシリーズをつらつら書いてきましたが、まさに岩野市兵衛さんという存在そのものが、越前和紙の続いてきた理由でした。以下に一部要約を載せますが、実際に耳で聞いた方がずっといいです。

〇楮100%に拘る、製法に拘る
奉書といえば楮だが、100%のものは今は少ない。国産楮は職人の不足により生産高が激減しているが、四季のある日本で育った楮は皮が柔らかく、使う薬品も少なくて済むので今も何とか手に入れて使っている。
楮は繊維を長いまま残すため大部分を手作業で叩く。でんぷん質が残っていると虫が食うため、流水の中で塵取りをしよく洗う。水と原料を混ぜ合わせるためトロロアオイやノリウツギといった粘性のある植物の液を混ぜてかくはんし、一枚一枚厚みを確認し加減を調整しつつ紙を漉く。こうして何層にもなった楮100%紙は薄くめくることができ、虫食いもせず保存性が高いことから、今は版画用紙だけでなく美術品の修復にも使われている。(ルーブル美術館等に納めている)
〇需要第一
「求められるから」作り続けている。世の中がどんなに変わろうが、便利なものがたくさん出てこようが、顧客の求める品と品質に応えることが使命である。
〇越前和紙の職人の強み
越前和紙が1500年も続いてきたのは、紙漉きに向いた不純物の少ない豊かな水の恵みと、どんな難しい紙でもやってのける職人の技術と気概があったから。大変な仕事なので今後ますます職人は少なくなっていくと思うが、どこからでも来て紙漉きをやってほしい。

 市兵衛さん、とにかく年齢を感じさせない。受け継がれた知見と経験に裏付けされた数値がポンポン出て来る。かつて職人は商人でもあった、一人で何役もこなしたと以前書いたが、まんまその通りのお方。帰りは姪とともに東京駅までご一緒したが、電車の中でも背筋シャキーン、人混みをすいすいと通り抜け、どっちが送られてるのやらわからない体たらく。別れ際素晴らしく美しいお辞儀をされ恐縮する私たちに、家にお土産を買っていくからとさーっと軽やかに階段を下りていかれた。
「人間国宝というのは製造工程が認定されたというだけで私という人間のことじゃない」
と謙遜なさっていたけれど、いやいや正真正銘、日本の宝です。どうぞいつまでもお元気で!というか私体力も気力も圧倒的に負けてる…私の方がお元気しなきゃ…。

参考までにこちらのリンクもどうぞ:
市兵衛さんご愛用の那須楮を作っている斎藤さん

続いてきた理由 十2017/08/15 10:35

長田製紙所の丸八印。レトロな字体がなかなかよい♪

皆さま、良いお盆休みをお過ごしでしょうか? 私はこの夏休み諸般の事情でどこにも出かけられず蟄居生活をしております。ものを読んだり書いたりするにはうってつけですね♪(泣)
というわけで(どういうわけだ)、ここで「職人」について考えてみます。
※こちらで書いている内容は、様々な資料や本から関連したトピックをまとめたものです。詳しく知りたい方は文末の「参考」欄のサイトや本をご覧ください♪

現代日本において職人とは?
「自分の技能によって物を作ることを職業とする人。大工左官表具師など。 」
出典|小学館デジタル大辞泉について | 情報 凡例

鎌倉期に「職人」とされる人びとのなかには、医師・陰陽師・巫女・博打・万歳法師(芸能)など職能民全体がふくまれていました。自分の技能を使って何らかの仕事をする人、という大きいくくりだったのでしょう。室町期以後は職人といえば上記の定義のとおり主に手工業者をさす言葉となったようですが、まだはっきり業種が分けられていたわけではなく、田畑を持ち農村で生活しながら物を作りさらに運搬・販売までしていた者も多かった。職人の多くは商人をもかねていたということです
顧客より直接注文を受け生産・販売するというやり方で、商人の仲介販売利益を排除しようとした…ともいわれています。「職人」も「商人」もかなり古くからいたということですね。ものをつくる人というのはある意味わかりやすいですが、商人ってそもそも何をする人だったのでしょう?

「虹が立つ」ところに市場をたてるという慣習
人と人の間で物を交換するというのは「贈り物をして、お返しを貰う」という贈与互酬の行為です。つまりその関係をより強固にする目的ですることであり、商行為とはいえません。では「商品としての交換」はどのようにして行うか。
「モノがモノとして相互に交換されうるためには、特定の条件をそなえた場が必要、その場が市場である。市場においてはじめて、モノとモノとは贈与互酬の関係から切り離されて交易をされる…市場は日常の世界とは関係ないいわば『無縁』の場として古くから設定されてきたのではないか」(勝俣鎮夫)
「虹が立つところに市をたてる」という慣習は、平安時代の貴族の記録にもあり、室町時代にもまだその名残があったそうです。驚くべきことに日本以外の他の民族にも共通した慣習が存在するといいます。つまり市場は
「神の世界と人間の世界…聖なる世界と俗界の境(=虹の立つところ)に設定される」。
何か厨二心をくすぐる(笑)壮大な表現ですが、要するに日常の関係性に関わりなく、商品を以て自由に交渉ができる場ということです。現代の市場原理の原点ともいえますね。

技術を持つ人は神仏の直属民
そもそも金融の始まりは以下の「出挙(すいこ)」と呼ばれる流れだそうです。
初穂を神に捧げる→神聖な蔵に保管→翌年種籾として農民に貸与→収穫期、借りた種籾とともに若干の利息をつけて(利稲)蔵に戻す、の繰り返し
人智を超えた神仏に捧げられたものを人間世界で使用した場合、神仏への礼として利息をつけて返すという形がとられていた。このようにどうやって利を得るかを考え実行するのは、相当の知恵と機転がないとできないでしょうから、神仏の世界に通じる特殊技能のひとつとされたのも納得がいきます。
このころの商工業者は、特定の領主の支配する荘園の範囲をはるかに超えて、市場から市場へと活発に移動していました。職人たちは寺社神仏に奉仕する神人などの身分を得て、領主の支配領域にとどまらない活動の自由を保証されていたのです。金融や交易、ものづくり、芸能等秀でた技を持つ人は神仏に直接仕える者として、一般民と区別されていました。
もっとも神に近いところにいた「職人」たちは同業組織としての座をつくり、権威ある寺社神仏の加護と、土地の権力者に支えられて営業権を保証されていました。が、その排他性と特権が職人同士の対立を生み、さらに顧客と職人の自由な交渉と契約に基づかない在り方は産業の衰退を招くとして否定され、戦国期の終わりには楽市・楽座が行われるようになりました。領主の権力範囲からはみ出し利益を独占していた座や株仲間などは廃止され、絶対的な領主権の確立を目指すとともに、税の減免など新興の商工業者を支援・育成し経済の活性化を図ったのです。

南北朝時代を境に、従来の神仏に対する意識が変わり、それに伴って金融や交易、手工業に携わる人たちの身の処し方も変わっていったようです。しかし細かい事情は違うにしろ、まさに歴史は繰り返す…と思ってしまうのは私だけでしょうか?

ともあれ本来の意味での「職人」とは、
「ただひたすらものづくりに集中する」だけではなく、
神仏を敬い、
商売の世界と日常とを明確に分け、
権力に阿ることなく対等に渡り合って
したたかに生き抜いてきた存在である

ということらしいです。

参考:
「日本の歴史をよみなおす(全)」網野善彦 ちくま学芸文庫
「神と紙 その郷」