続いてきた理由 六2015/10/05 16:48

秋も深まりました。和紙の里の秋祭りはもうすぐです。
日付は、毎年
10/11・12・13
の三日間と決まっていて、今年は日月火。最終日は平日となってしまいました。
画像は重要文化財指定の社殿。(「玄松子の記憶」より)

春の祭りは岡太(おかもと)神社中心の「紙のまつり」ですが、秋は、さらに歴史の古い「大瀧神社」が中心。主祭神である国常立命(くにとこたちのみこと)・伊奘諾尊(いざなぎのみこと)の二柱の神を山上の奥の院から里宮にお迎えします。社伝によれば、大瀧神社は推古天皇の御代(592-638)大伴連大瀧(おおとものむらじおおたき)の勧請により始まり、ついで奈良時代・養老三年(719)、泰澄大師が紙祖岡太神社(川上御前)を御前立、国常立命・伊奘諾尊の二柱の神を主祭神として配し霊場を開き、大滝寺を建立。神仏習合の地となりました。

国常立命は天地開闢の際に出現した神で、国土形成の根源神・国土の守護神とされています。伊奘諾尊は妻のイザナミとともに国産み・神産みの神であり、日本の島々をはじめ、木・海・水・風・山・野・火など森羅万象の神を産みました。

日本の原始信仰は、生活の糧である水とその源流たる山に対する畏敬の念=自然崇拝から生まれ、祖先の霊や氏神といった祖霊信仰とともに、古代の人々の精神の中に生き続けてきました。山におわす水分明神(みくまりみょうじん)がいつしか
「みくまり」(水分…水配り)の神から
「みこもり」(御子守…子育て)の神の信仰へと変化していったことからわかるように、水は何かを産み出す霊力のあるものとされていたようです。

そもそも岡太神社に祀られる祭神の発祥は「水の神」。古くから岡太川(川上御前が川上からいらしたといわれている川)の上流に「地主神」「産土神」として鎮座され、「水波能売尊(みずはめのみこと)」「水分神(みまくりのかみ)」として祀られていたそうです。
まさにその信仰を裏打ちするかのように、山から湧き出す豊かな水によって発祥し発展した紙漉きの業。元々山と水の恵みを敬う神聖な場所であったからこそ、水と関係の深い技術を持つ者たちを引き寄せたのではないでしょうか。「川上御前」がこの地を選ばれたのも、この神々に呼ばれてのことかもしれません。
                               >>不定期に続く
参考:「神と紙 その郷」紙祖神岡太神社・大瀧神社 重要文化財指定記念誌

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